デザインされた制約が自由を作る

テキストを用いたおしゃべりというやりかたは、「不自由」なのではなくて、逆に自由すぎる環境が、あらゆる行為を無意味化していった結果として、全ての人が、同じやりかたに収斂した結果なのだと思う。


「何でもできる」ことは、多様性を殺してしまう。


相手を探す必要のない世界では、探索することに意味が生まれない。


「ユーザーは何でもできる」を素直に実装してしまうと、ユーザーは、たぶん「最適なやりかた」に収斂してしまって、結局ユーザーは、自由さを感覚できない。ゴールに向かわない選択肢がいくら増えたところで、それは実装者の独りよがりに過ぎなくて、ユーザーはたぶん、それを「自由」とは認識しない。


多様であるためには、トレードオフがなくてはならない。


トレードオフを上手にデザインできたルールの下では、それぞれの選択枝に、優劣が発生しない。どれを選択しても、長所と短所が必ず発生して、選択が、本質的な優劣を生まないような状況になって、はじめてそのゲームは、「選択枝が多様で自由である」と認識される。


制約が自由を感覚させる